山田 積善 やまだ かつよし
   

回首五十有餘年
人間是非一夢中
山房五月黄梅雨
半夜粛々灑虚窓
回首(=回想する)五十有余年
人間是非 一夢の中
山房の五月 黄梅の雨
半夜(=夜半)粛々として 虚窓に灑ぐ
134.8p×34.5p

明治30年(1897)7月25日生〜昭和51年(1976)12月1日歿
法律家、詩吟家。通称「せきぜん」。
 愛媛県喜多郡柳沢村(現 大洲市柳沢)にある宗安寺(曹洞宗)で生まれた。父は和尚であり、母の家系は藩の要職を務めた名門であったが、母は病弱であったため積善が幼い頃病没し、山村のお寺の収入は日々の食事にもこと欠く状態であった。
 積善は苦学力行し尋常小学校高等科を卒業、県立松山農業学校へ進むも、学資が続かず1年で退学。しかし、17歳で京都へ出て、新聞配達、牛乳配達、車引きなどをしながら同志社中学夜間部へ通った。
 その後明治大学法科を卒業、書生をしながら更に勉学に励み、昭和6年34歳でに司法試験合格、戦後は東京家庭裁判所判事、静岡市公証人を務め、昭和42年定年引退した。
 傍ら、自己流で詩吟を始め、「包容会」を創設、会誌発行とともに後進の指導にも当たった。積善は明治大学在学中に、宗教家で「道会」会長松村介石の知遇を得、詩吟は余興や芸能ではなく「祈りであり、行である」として「吟行」という言葉を用い、「詩吟は心ある日本人の祈りであり、己を磨き強固な精神を養う修行として吟ぜよ」と指導した。彼の「祈り」「修行」の詩吟は更に研ぎ澄まされ、国民の絶大な支持を受けてラジオ放送やレコード吹き込みでも活躍、介石の熱のこもった講演のあい間に積善が詩を吟じ、国民の心を覚醒させる講演会が相当の期間続いた。ジャーナリストで歴史家政治家でもある徳富蘇峰からも大変な信頼を受け、蘇峰の講演にも付き添って詩を吟じた。
 昭和21年自らの限界を感じたと正月のラジオ放送を最後に詩吟をやめ、静岡県で弁護士業に専念。転句を主音のオクターブ上がりに吟じ、その独特の迫力のある吟風は“積善流”と呼ばれる。

推奨サイト
http://wpedia.goo.ne.jp/wiki/%E5%B1%B1%E7%94%B0%E7%A9%8D%E5%96%84
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https://kotobank.jp/word/%E5%B1%B1%E7%94%B0+%E7%A9%8D%E5%96%84-1674521
http://talent.yahoo.co.jp/pf/detail/pp496865
http://www.weblio.jp/content/%E5%B1%B1%E7%94%B0%E7%A9%8D%E5%96%84
http://www.soho-tokutomi.or.jp/db/jinbutsu/1289


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